「誕生」
我らが日本が世界の檜舞台へと駆け上がった高度成長期真っ只中、父も母も岐阜市の職員という公務員夫婦の
長男として、昭和47年6月19日に岐阜県岐阜市の岐阜大学附属病院で僕は生まれました。
生まれも育ちも生粋の岐阜っ子です!
激動の昭和47年は第二次ベビーブームのど真ん中で、浅間山荘事件や沖縄返還も僕が生まれた年の出来事でした。
有名人ではSMAPの木村拓哉さんや中居正広さん、大相撲の貴乃花親方や、歌舞伎の中村獅童さん、女優の稲森いずみさんや常盤貴子さん、韓流スターのぺ・ヨンジュンさんやチャン・ドンゴンさん、それから元ライブドアの堀江貴文さんも同じ学年です。
岐阜の誇るスポーツ選手、マラソンの高橋尚子さんや中日ドラゴンズの和田一浩選手も同じ学年ですね。
しかもなんと、和田選手とは同じ中学なんです。
そしてなんとなんと、誕生日も一緒。(笑)
僕も頑張らねば!って思っちゃいます。
「幼少期」
生まれてからは岐阜市正木の岐阜市の職員住宅アパートに住んでいました。
『9.12』の水害の時を今でも覚えています。
当時3歳だったと思いますが、アパートの部屋が水に浸かるんじゃないかと大人が右往左往していたのが鮮明に記憶に残っています。街中を鵜飼の屋形船が往来していたのも不思議な光景として僕の頭に焼きついています。
そしてこの年、愛すべき妹、「綾子」が生まれました。
僕は初めての「お兄ちゃん」になったわけです。(笑)
父と母が共働きだったので、祖母と伯母が住む岐阜市鷺山のアパートに昼間は預けられていました。
幼稚園にはその祖母のアパートから幼稚園バスに乗って通いました。
岐阜市則武にある名門幼稚園、「はなぞの幼稚園」です。
今でも「はなぞの幼稚園」の制服を着た小さい患者さまが「りお歯科クリニック」に来てくれます。
僕の可愛い後輩たちになるので、とても嬉しい気持ちになります。
歴史の古い幼稚園ですが、いつまでも存続してほしいなって思っています。
「小学校時代」
初めての小学校は「岐阜市立 鷺山(さぎやま)小学校」です。
この小学校には1年生から4年生まで通いました。
両親ともに共働きだったため、鷺山の祖母の待つアパートまで1キロほどの田んぼ道を毎日通いました。
子どもの足では結構遠いのですが、そこは楽しい田んぼ道。
小川の中のカエルを捕まえたり、ザリガニを釣ったり、野イチゴを摘んで食べたり、もみがらの山に飛び込んだり、
ビニールハウスに入り込んで暖まったり(すいません。叱られました。笑)、と小学生らしい小学生を満喫しました。
そして5年生になる時、初めての転校を経験します。
現在の実家でもありますが、岐阜市上土居に家を建ててアパート暮らしからの引っ越しです。
初めて自分の部屋を貰えた嬉しさっていったらなかったですね。
今でもその感激を覚えています。引っ越しを機会に祖母の部屋もできましたので、僕は「おばあちゃん」と一緒に暮らせることになりました。それもすごく嬉しかったことを思い出します。
転入先の小学校は「岐阜市立 常磐(ときわ)小学校」という学校です。
5年生、6年生と通いました。
その頃にはボーイスカウトにも所属して、学習塾にも通い始めました。
とりわけ学習塾は楽しくて、毎週必死にバスで通ったのを思い出します。
当時は小学生で学習塾という形態も珍しく、同じ小学校では僕一人でした。
当時通っていた先は「能力開発センター」という塾です。今でもありますよね。
いわゆる「能開」です。当時は超がつくスパルタの塾で、宿題を忘れればビンタでしたし、
テストの点が悪ければ参考書で頭を叩かれました。(笑)
それでもたくさんの他校の優秀な友達ができて嬉しかったですし、自分の成績もグイグイ上がるのが分かりました。
お金をかけて高度な教育を付けてくれたのも、親のおかげだと思っています。
本当に感謝しています。
そして僕は中学受験を経験しました。
その前にはもちろん「受験合宿」なるものも経験しましたよ。
よくニュースでやってるアレです。
お正月から頭に必勝ハチマキを巻いて徹夜で勉強しました。(笑)
愛知県の東海中学を受験したのですが、・・・残念な結果に終わりました。
それでも一つの目標に向かって一心不乱に頑張ることを経験させてもらいました。
田舎の僕の小学校からはもちろん1人も中学受験者はいませんでしたし、歴代でも初めてだと言われました。
ホントにそんな時代だったんです。
今からは想像できませんよね。(笑)
でもそんな貴重な体験がそれからの僕を強くしてくれたんだと思っています。
普通の小学生ではなかなか体験できない、豊富な人生経験を積めた小学生時代だったと思います。
辛く感じた出来ごともあったと思いますが、今ではとても感謝しています。
「中学校時代」
中学受験に失敗したため(笑)、そのまま公立の「岐阜市立 青山(せいざん)中学校」に入学しました。
この「青山中学校」は、「鷺山小学校」と「常盤小学校」が合わさってできています。
そうなんです。
入学したときは、学年の「ほぼ全員が顔見知り&大半が友達」でした。(笑)
中学ではテニス部に入ります。
ここでも楽しい仲間ができました。
学校生活では二年生で生徒会を経験し、三年生はずっと学級委員をさせてもらいました。
組織をまとめることの大変さや、やりがいを知ったのもこの時期だった気がします。
そして・・・、最愛の祖母の死を経験しました。
僕の今の「折戸」姓は、実は母方の旧姓なのです。
正式には僕は祖母縁組の養子として、「折戸」姓を名乗ることになりました。
母が女系家族で「折戸」姓が途絶えてしまうのをとても祖母が気にしていたので、そうしました。
しかし、「折戸」姓は家では僕一人になってしまいました。
取り乱す母、泣き崩れる伯母たち・・・。
初めて目にする異様な雰囲気で、これが人が死ぬということなんだと生まれて初めて認識しました。
忙しげに進む葬儀の中で、中学生である僕が、跡取りの『喪主』を務めました。
僕が中学生ということもあり親戚たちの反対もあったと思いますが、「折戸」姓として跡を取れるのは僕しかいないという自負も僕にはありました。
この経験は、祖母が僕に残してくれた最大の財産だと今でも思っています。
祖母には本当に多くのことを教わりました。
ただ、僕の成長を見てもらえなかったのは心残りでなりません。
今では必ず年に二度、お墓参りに行って色々な事を報告しています。
「あばあちゃん、大好きだよ。本当に本当に、いろいろありがとう。いつまでも天国から見ててください。おばあちゃんの孫として恥ずかしくないように、頑張るから!」
今だから、やっと言えます。。。
「高校時代」
中学校の授業というより「能開」を真面目に励んだおかげで、「東海高校」にもリベンジを果たし、祖母と母の希望でもあった「岐阜高校」にも合格しました。
岐阜で一番歴史の古い、「岐阜県立 岐阜高等学校」に入学します。
塾で何年も共に過ごした他校の友人たちがたくさんいたため、入学した時にはすでに友達が多くできていました。
知らない間に本当に多くの友人ができました。
そして、ここで一生を通して関わり続けるであろう、僕の人生の親友たちに出会います。
高校時代は「柔道部」に所属しました。
こう見えて、僕、有段者なんですよ~。(笑)
しかしとても厳しい部活でした。。。
そして、バンドにも明けくれました。
ちょうど「パンク」というジャンルの音楽が流行っていた頃で、「JUN SKY WALKERS」や「UNICORN」のコピーバンドをしていました。
知らないですよね。(笑)
でも初めてギターを買ってもらった時の喜びは今でもハッキリ覚えています。
冬休みや春休みには友人たちとバスでスキー旅行に行ったりもしました。
ほぼバスを貸し切りで一回の旅行が20~30人とかのスキー旅行も高校生の分際で主催したりしていました(笑)
みんなで楽しくワイワイってのがこの頃から大好きだったんだと思います。
しかし、遊んでばかりもいられません。自分で言うのもなんですが(笑)、ここは名門「岐阜高校」。
周りの友人たちは本当に優秀で、ちょっと勉強しないとみるみる成績は下がっていきます。だって、
「華陽(岐阜のこと)の健児、ここに生まれて、国家の為に明けくれ学ぶ」
って歌詞が校歌の中にあるくらいですから。(笑)
「校外に出れば優越感。校内に入れば劣等感。」そんな落書きが校舎にありました。
先輩たちは上手く言ったもんだと思いました。
さて、高校に入るといよいよその先の進路を見据えます。
大学に取りあえず入ってから・・・という人もいますが、その先の進路を見据えて大学選びをする人も多くいます。
僕は、岐阜市鷺山で「田口こどもクリニック」という小児科を開業している伯父を小さな頃から見ていたため、
『医者になるんだろうなぁ。。。』と漠然と考えていました。
母もそれを望んでいましたし、それが最良の道だと考えていました。
なにしろその伯父は僕の憧れでしたし、今でも僕のもっとも尊敬する人でもあります。
何を思ったか、「僕は小説家になる!」と宣言した時もありましたが、全力で家族に反対されてからは(笑)、『医者になるんだろうなぁ。。』から『医者になりたいなぁ。。』、『よし、医学部を受験するぞ!』に変わっていきました。
しかしそこはベビーブームの受験生。
受験者数は年々増加し、受験産業も拡大し続ける、甘くない時代でした。
僕は予備校生(浪人生)へと進路を変更せざるを得ませんでした・・・。(笑)
「予備校時代」
いやぁ、楽しかったです!
って、そもそもそこが間違いですよね。(笑)
最初は志高く勉強し、「俺は受かるに決まってる!」と勘違いして国立の医学部だけを受け続けていました。
そして恥ずかしながら二浪が決定して焦りました。
親にお願いして、私立も受けさせてもらい、たまたま合格した早稲田大学にも籍を置かせてもらいました。
それでもやはり医学部が諦められずに、受験生を続けました・・・が、医者への道は遠く、僕は「医者になることを諦める」という人生最大の挫折を経験しました。
そして、伯父の勧めもあり、「歯学部」を受験しました。
自宅から通えることを条件に「愛知学院大学歯学部」と「朝日大学歯学部」を受験し、両校に合格しました。
自宅から近いのと、地元なのもあり「朝日大学歯学部」に入学することに決めました。
「医師」と「歯科医師」。
資格は違えど、同じ医療の現場で患者さんの幸せを追求する職業に、想いの違いはないと・・・。
僕の一生の進路はここで決まりました。
しかし、「一生涯歯科医師」としての決意を強くするのはまだまだ先のお話です。
「大学時代」
現金なもので、大学生になると受験で背負った挫折感は日に日に無くなっていきました。
友人がたくさんできて楽しい学生生活を満喫したと思っています。
僕は実家通いだったので、大学に密接した生活と大学を離れたプライベートな生活とを適度に両立できました。
高い学費を親に出してもらっていたため、大学在学中の生活費は全て自分で賄っていました。
なので、ほぼ毎日がアルバイトの生活です。
基本的には週に5日ほど家庭教師をしていたのですが、夏休みや春休みなどの長期休暇は本当にさまざまなバイトをしました。
プールの監視員、ゴミ収集車に乗ってゴミの収集、道路工事の土方、交通量調査、野球場の売り子・・・などなど、本当にさまざまな職種を体験させてもらいました。
中でも一番僕が好きだったのは、「鵜飼の船頭」です。
岐阜の誇る「長良川鵜飼」の観覧船の船頭をしてたんです。驚きでしょ。(笑)
「てやんでい、べらんめい」の世界で(笑)、本当に異色の世界です。
でも、伝統文化を守ってるという心意気や、竿と櫂で船を操船する特殊な技術、そしてお客さんとの触れ合いや、頑固な年長者との付き合い方(笑)、などとても多くのことを学ばせていただきました。
その時の船頭さん仲間は今でも患者さまとして「りお歯科クリニック」に来てくれています。
そんな学生時代の経験が今の僕を創ってくれているんだと思います。
「若い頃の苦労は、買ってでもしておけ。」
というのが母の口癖でした。そして人の嫌がるきつい仕事、汚い仕事を率先して経験しなさいというのが教えでした。
当時は、「そんなの間違ってる。苦労なんてしなけりゃしないに越したことはないはずだ。」
って僕は思っていました。
ですが、今になって、僕の考え方こそ間違ってたんだなって思います。
今では当時の母と同じように思います。
その厳しさに反抗したくなる時もありましたが、今ではとても感謝しています。
さまざまな経験をしてきたおかげで、ただ漫然と大学生をしていただけでは得られなかったであろう人生経験と出会いをたくさんいただけました。
本当にありがとうございました。
学業の方はどうかというと・・・、まあ、そこそこでした。(笑)
普通よりちょっと上ぐらいで、暇があれば麻雀とスキーに明けくれていました。
そういえばスキーで一級を取ったのも大学生の時でした。
しかし必要に迫られる時がやってきます。
そう。国家試験です。
歯学部を出てみたものの歯科医師免許が無ければ、「歯に詳しいただの人」です。
ちょうど歯科医師国家試験が厳しくなり始めた頃で、たぶん僕の人生でも一番がむしゃらに勉強した時期だったと思います。(医学部目指してる時にこれぐらいやってれば・・・笑)
3000人くらいが受ける全国模試で20番位を続けて取ってたような覚えがあります。(ちょっと自慢 笑)
結局、人生紆余曲折しながら、大学を卒業し、歯科医師になることができました。
「勤務医時代」
勤務医として最初に勤めた歯科医院は、滋賀県にある「医療法人 愛全会」でした。
滋賀県内に4つの歯科医院を持ち、先輩ドクターも7人いました。
滋賀県で一人暮らしをしながら社会人の厳しさを勉強しました。
ホームシックにかかり、月に2,3回は岐阜に帰ってきてたと思います。(洗濯物を大量に抱えて 笑)
でも日に日に歯科医師という職業が好きになり、自分でもメキメキと上達するのが分かりました。
一つの医院を任されるようになり、患者さまとも多くの信頼関係を持てるようになりました。
そして、どんどん仕事が楽しくなりました。
ただ、岐阜が大好き過ぎて・・・。(笑)
一年半後、お世話になったその医院を退職させていただいて、愛する家族のいる岐阜へと帰ってきました。
それからはずっと実家暮らしです。
結婚してる今も実家暮らしです。
はい。実家も家族も僕、大好きなんです。(笑)
岐阜に帰ってきてからは、岐阜市にある「六条歯科クリニック」に勤務させていただきました。
そして一年ほどして、院長代理(正式には管理者ではないのですが、院長という役職をいただいてほぼ全てを管理させてもらいました)として、診療の全てを統括し経営にも参画させてもらいました。
スタッフ教育や組織の管理、一人で医院を運営していくことなど、ここで経験させていただいたことはその後の開業人生においてとても為に成ることばかりでした。
居心地が良かったこともあり、5年半もの長きに渡りお世話になりました。
しかし、やはり自分で考え、自分の本当の想いが詰まった医院で、患者さまに最高の医療を提供したい!と次第に思うようになり、忘れもしない2006年10月、僕は開業を決意したのです。
「開業医になるまで」
僕が「りお歯科クリニック」を正式に開業したのは2008年3月31日です。
開業すると決意し、宣言してから、実に1年半の歳月を要しました。
もちろん、勤務先に迷惑がかかっちゃいけないと、開業を決意した時点で僕の想いと退職の意向を伝えました。
実際に退職できたのはそこから一年以上経った2008年の2月でしたから、開業準備は勤務医をしながら進めていきました。
今から思えばあっという間でもあり、長くも感じる1年半でした。
土地を探して来る日も来る日も駆けずり回りました。
僕の人生はそれまで不動産屋さんという職業の方となんら接触したことないような人生です。
それがご縁をいただいて、今の場所に開業地が決まるまで、なんと半年で交換させていただいた不動産屋さんの名刺が40枚以上になりました。
土地が決まると今度は設計士さん選びです。
僕の想いを形にしてくれる人や会社を真剣に選びました。
生まれて初めて、銀行員の方ともまともに話をしました。
税理士さんという職業の方にも初めてちゃんと話をしました。
開業するために、とにかく初めての経験ばかりで必死でした。
でも今振り返ってみると、毎日が楽しくて、充実していたな・・・って思います。
ただ、眠れませんでした。。。(笑)
やっぱり不安だらけでした。
考え事の90%以上が不安の毎日でした。
初めての多額の借金。初めての経営。
僕の想いに賛同してくれる患者さまは果たしているんだろうか。
スタッフたちは集まってくれるだろうか。
そんな事ばかりを毎日考えていました。
でもでも、僕にできること、僕がしなくちゃいけないことは、僕の患者さまへの熱い想いを目一杯詰め込んだ「りお歯科クリニック」を創ることしかなかったんです。
患者様が喜んでくれることだけを考え出来る限りのアイデアを「りお歯科クリニック」で表現しようと思いました。
そのために設計士さんにも建築業者さんにも歯科業者さんにも無茶言いました。
無理なお願い聞いてもらいました。(笑)
そして、目一杯の想いの詰まった「りお歯科クリニック」が完成し、2008年3月29日、大安の土曜日に、内覧会を迎えることができたのです。
『「りお歯科クリニック」を開院して』
内覧会では実に1500人以上の方に御来院いただきました。
そして、開業前予約が150人という状態でした。
僕は嬉しくて泣いてしまったのを覚えています。
そして、これからは多くの患者さまの期待に応えていかなければいけないと気が引き締まる思いでした。
現在、「りお歯科クリニック」を開院してから数年が過ぎました。
今でも本当に多くの患者さまに愛していただいています。
そして、スタッフたちも増え、また日に日に成長していってくれています。
僕は信頼され感動される組織を創りたくて、「Reliable and Impressive Organization」の頭文字を取って「りお(RIO)歯科クリニック」と名付けました。
これからもスタッフみんなで成長していって、もっともっと患者さまに愛され、信頼されるような「りお歯科クリニック」を創っていきたいと思っています。
働くスタッフも、通ってくださる患者さまも、「りお歯科クリニック」に関わっていることを誇りに思えるような、そんな素敵な存在になりたいと思っています。
そして大好きな岐阜のためにいつも幸せな笑顔を「りお歯科クリニック」から発信し続けていきたいと思っています。
大好きな岐阜を愛し、岐阜を元気にするために
「りお歯科クリニック」から元気をいっぱい発信していこうと思っています。
そのために、僕はこれからもずっと岐阜で、成長し続けます。
これからも末永く、よろしくお願いします。